その昔、豊臣秀吉によって発令された「刀狩令」は、歴史の授業などでもお馴染みの歴史と言えるのではないでしょうか。この「刀狩令」は、戦国の各諸大名が各々
で進めていたとされる政策を全国的な規模でまとめ、徹底的に推進したというものであったというのは有名な史実でしょう。その目的として「土一揆の根絶」「大仏造営」「農業への精励」という3つが挙げられることも有名ですが、本来の目的は、1つ目の「土一揆の根絶」だけであり、あと2つの目的は、単純に武器を取り上げるためだけの建前であると考えられているようです。「土一揆」というものは、その土地の地侍たちが農民を扇り、隙を狙っては権力者に取って代わろうとするものであるとされ、江戸時代などに見られるような、年貢の徴収に耐えかねて行われた百姓一揆とは異なるものとされているようです。わかりやすく表現すれば「下克上」的な意味を持った一揆であり、農民一揆に比べて、非常に過激な思想であったとされているのではないでしょうか。その「土一揆」を起こさせないようにするためには、農村の武装解除は必要不可欠と考えた秀吉は、武器を没収する理由として「刀や槍をつぶして大仏をつくる釘や鎚とする」また、「同じく刀や槍をつぶして農機具を増産し、農業の生産拡大をはかる」という、農民が受け入れやすいような、もっともらしく、かつ、道徳的な目的を掲げ、事実上、反抗できないような状況を作り上げたと言えるのではないでしょうか。争いが起きなかった時代というよりは、争いを起こさせないよう、統制されていると見せかけて、その実、実権者によってコントロールされていた時代であるとも言えるのではないでしょうか。