日本刀といえば、刀狩りの歴史が多く語られるのではないでしょうか。刀狩りの元祖は、なんといっても武蔵坊弁慶だと言えるでしょう。弁慶は、紀伊の熊野の別当が二位大納言の姫君を強奪して生ませた子であり、母の胎内に18ヶ月居て、生まれた時に既に3
歳児ほどの大きさで、父親から「鬼神」と言われ殺されそうになったところ、母の哀願で助けられたと「義経記」に伝えられているのをご存知でしょう。6歳で癌癒を患い、比叡山西塔の桜本の憎正に預けられたものの、度々乱行を働き追放。その後、諸国修行に出ますが乱行は変わらず、京に出て千本の太刀を奪う悲願を立てます。そして悲願達成まであと一本というところで、義経に出会い、その後は有名な橋弁慶伝説へと繋がっていくでしょう。
時代は移り、豊臣秀吉は全国に刀狩りを発したのもご存知でしょう。それ以前に秀吉は関白となり、太政大臣に任じられ「豊臣」の姓を賜っているとされています。天下にその威を示すため、北野の大茶会を催し、その後京都東山に方広寺大仏殿を建立したとされています。そして歴史は、かの有名な万狩令を記しているでしょう。これは、より多くの人が読めるよう、分かりやすく書かれており、集めた刀などは、大仏殿の釘やかすがいに使うので、百姓の子子孫孫まで功徳をつみ助かると呼びかけていたと言います。これは、物凄い勢いで全国実施され、集められた太刀、刀類
は百万本を超えると言われています。
また、ポツダム宣言に「海外派遣軍の武器のみならず国内のあらゆる武器を一定の場所に集めていつでも連合国軍に引き渡しうるように処置せよ」とあり、この「武器」は、日本刀を意味しており、日本刀提出の指令の元に、隠し持っていた場合などは銃殺されたと伝えられています。