応仁の乱以降の日本刀

応仁の乱は、室町時代末期から京都で繰り広げられました。1467年(応仁元年)から、1477年(文明9年)にかけて、およそ11年間に及んだ長期戦の戦乱になりました。この戦いによって京の町は焼かれ、僧侶や商人たちは地方に移ったことで難を逃れました。そのせいで室町幕府の権威は落ちてしまい、領国に帰った守護大名は各地を拠点として争う姿勢を見せました。応仁の乱以降、織田信長、豊臣秀吉に天下統一されるまで、守護大名はそれぞれ領国で軍備を整えていきました。実力があれば支配区域を拡大できるため、全国各地で戦いを繰り広げていきました。この戦乱の世は100年続いて、戦国時代と呼ばれています。下剋上をしようという勢いはますます強まってきて、守護大名は振興の大名に変わっていきました。厳島の戦い、桶狭間の戦い、河越の戦い、姉川の戦い、長篠の戦いなどが、大きな戦いとして有名です。これだけ戦闘が続いた時代だったため、兵器を作ろうという勢いはますます強まっていきました。武装具が一気に発展した時代とも言われています。この時代の戦闘は全てが実力本位であったために、今までの戦闘方法にはこだわらずに、とにかく勝ちにいける武器や方法を採用していきました。密集した隊形での交戦が増えていったため、リーチのある大太刀よりも、今まで腰に佩刀していた太刀に変わっていきました。さらに、抜き打ちが容易に行える、打刀が使用されはじめたのもこの時代です。また、この時代に攻撃だけでなく、防御も工夫されていきました。今までの甲冑に代わって、篭手や頬当て、脛当てなどを採用し、槍や刀、鉄砲などから人体の重要な部分を防御できるように、考案されていきました。

コメントする