榊原鍵吉の刀

榊原鍵吉(さかきばらけんきち)は、幕臣の家に生まれて、十三歳になったときには、江戸麻布狸穴の男谷精一郎(おだにせいいちろう)に入門をしました。直心影流(じきしんかげりゅう)の剣術を修めるためです。のちに、師男谷の推挙によって剣術教授方になります。教授方は、井上八郎や桃井春蔵をはじめとする、幕末の有名な剣客が名を連ねていました。そのうちの一人になった榊原鍵吉の腕が、いかに優れていたかは分かります。実際に健吉は、同じ教授方である三橋虎造(心形刀流、突きの名手)と仕合いをして破り、剣術日本一という泥舟高橋三郎からは面を取り、徳川家茂の御前試合であっても名手であった天野将曹を破ったと言います。どの仕合であっても、木刀を大上段に振りかぶっての勝利であったと言います。その後、上野の彰義隊戦争が起こりますが、このときの健吉は輪王寺宮の護衛として仕えており、5月に敗戦が決まってからは、宮を守って三河島村に落ちのびていきました。しかし宮は深窓育ちであるために草鞋の履き方もあまり分かっていない様子で、仕方なく鍵吉は宮を背負って移動をしました。その後に植木屋の門左衛門の家に辿りつき、鍵吉は下谷車の自宅に舞い戻りました。明治時代に入ってから、再び江戸に戻って道場を開きましたが、時代が時代であったために、門人はあらわれませんでした。仕方なしに、撃剣会の興行などで世をわたっていったそうです。同じく旧幕時代の剣士も、明治開化の時代では生きる手段がなかったのです。撃剣会もやがて廃れていきましたが、明治天皇の行幸があり、御前で兜割りが行われることになりました。兜を斬るという無茶な事ですが、鍵吉は同田貫業次の彼方で見事切り割り、奇跡を見せたと言い伝えられています。

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