大慶直胤は、江戸中期から末期に活躍した刀工である「水心子正秀」「源清麿」等と合わせて「新々刀江戸三作」と称されるほどの名工である。
名前の「大慶」は、七月十五日に出る月を「大慶の月」と呼び、その日に生まれたとされることに由来する。生年は、安永七年もしくは安永八年とされる。
生国は出羽国で、家は野鍛冶を生業としていた。 若年の頃より刀工を志し、山形藩主秋元氏の江戸屋敷で同郷の水心子正秀に入門した。 その後、秋元藩お抱え刀工として仕えた。文政四年または文政五年、筑前大掾を受領。名声が上がり各地よりの招請が殺到した。
嘉永元年、京都の鷹司家の依頼により太刀を制作し、功により美濃介の官位を下賜された。大慶直胤の特徴は、水心子正秀が唱えた「刀剣復古論」を実践し、「五箇伝」の技術を駆使した古刀剣を再現したことである。 代表作は、保存刀剣「脇差 銘 直胤(花押)」がある。