十二人の刀工

御鍛治番と呼ばれた十二人の刀工がいた。上皇の命により月番で作刀した。十二名の内、備前
国(岡山県の南東部)から七人が選ばれていた。そして名誉ある一月番が備前国の福岡一文字の
祖、古一文字の則宗であった。則宗は御鍛冶番第一人者の栄誉で、十六の菊弁の紋章を銘に刻むことが許された。
備前の万工グループを総して一文字派と呼ばれたが、則宗のみ「菊一文字」と呼ばれた。後鳥
羽上皇の御鍛冶番を代表したことから、その優美さに加え、ひとつ格が違うものとして後世まで語り継がれた。

日本刀が出現した平安中期から戦国の世が終わる古刀期まで、備前国は日本最大の刀剣生産地であった。鎌倉、南北朝、室町、安土桃山の各時代に代表的名工を輩出した。
上古刀、古刀、新刀、新々刀と称される作刀時代の区分では、日本刀以前の直刀時代を上古刀。平安中期から安土桃山の中ごろまでを古万。徳川幕府開闘を前後して、慶長から江戸の中期、天明、寛政あたりまでを新刀。明治中ごろまでを新々刀。以降、現在までを現代刀とよぶ。

 

コメントする