剣豪は生きてこそ

武士として武芸の稽古は、武士の心技体を習得していくために大変重要なものでした。

彼らは型の稽古を繰り返し、自分の体の動きを知り、技を向上させていくわけです。

武士道というと、新渡戸稲造の「武士道」を思い浮かべますが、江戸時代に武士道という言葉はなかったそうです。

では当時の武士道とは何かと問われるとはっきりとした答えはないそうです。

とはいえ、「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という葉隠の一説があるように、命を賭けて守らなくてはならない規律があったのは確かですが、儒教とか朱子学とは違うそうです。

ただ武士にとって守るべき規律は、武士であることの証でもあるので、それが「誇り」だったともいえます。

幕末維新の動乱で生き延び事をなした人々は、剣の達人でもあったそうです。

まずは福沢諭吉。流儀は立身新流居合の免許皆伝だそうです。稽古は一日も欠かさずしていたそうです。

人を斬ったりしたことはないそうですが、西洋かぶれの中心人物として、暗殺のターゲットにされることは多かったようです。もちろん暗殺者からは逃げ切っています。

逃げの小五郎として有名な桂小五郎(木戸孝允)も長州藩の武士ですし、勝海舟もそうです。

剣豪というのは剣の修業を熱心にしていたわけですから、禅からきた武士道というのを習得しているはずです。

なので剣豪と呼ばれる人たちは、「殺すなら殺し、活かすなら活かす」という沢庵和尚の言葉が示すように、斬って勝つというよりも、活かす道を模索していたようです。

禅の修行をすることは剣の道でもあったようですが、剣豪と呼ばれる人たちは、剣というものが人を殺すためのものというよりも、剣とは人の生死を自在に操れる域に達してこそと考えていたのかもしれません。

生きてこそ、を実践して日本を変えた偉人の多くが武士の魂を大切にした剣豪であったのは、とても面白いと思います。

 

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