日本刀という概念は当然ながら江戸時代には無く、当時は太刀、刀と呼ばれていました。最初に日本刀と呼び始めたのは、その美術的価値を評価した外国人であり、今もその名残として、日本刀という呼称が用いられています。明治維新以降、廃刀令も相俟って、日本刀の文化は停滞することになりました。軍刀として日露戦争等で使われることもありましたが、武器としても、美術品としても、広く認識されることはありませんでした。戦後はGHQの政策によってさらに日本刀は失われ、存続が危ぶまれる事態に陥りました。しかし日本政府も必死に文化の保持に努め、結局登録制という条件で日本刀を所持することが出来るようになりました。
現在では日本刀はすっかり美術品に成りあがり、製作、所有も盛んになっています。しかし武器としての所有は認められていませんから、刀剣としての機能性は、居合道や抜刀道で確かめられるのみになっています。ではその昔、武器としての日本刀はどのように用いられていたのでしょうか。合戦では弓や槍といった、刀以外の武器も使われましたが、それらと比較すると、刀がどのような位置を占めていたのかが分かります。例えば、13世紀の合戦の状況を報告した資料が現在にも残っているため、そちらから当時の戦いぶりを窺い知ることが出来ます。 資料には、馬の負傷の内、6割が矢でできた傷であり、3.5割が刀傷だったと記されています。因みに致命傷に至った傷は専ら刀傷だとも書き添えられています。他方、兵士の怪我の内訳を見ると、7割が矢による傷で、2.5割刀傷でした。槍でできた傷は2.7割でした。これらの数値から分かることは、弓が合戦の主要な武器であったという事実です。日本刀も奮闘していましたが、決して主役ではありませんでした。