地中の働き

日本刀には、地中の働き(じちゅうのはたらき)と呼ばれるものがあります。これは、一言で言うと地刃に生じる模様のことを言います。焼入れの際に、刀身に施されている焼刃土の両や、地鉄の鍛え肌の状態、素材の偏りなどが原因で起こる模様とされているそうです。この地中の働きは、大きく分けて5種類の模様があると言われています。1つは、映り(うつり)と呼ばれるものです。地鉄と焼入れの特殊な技術によって現れる模様です。光を反射させながら平地を観察したときに、白い影のように見える状態です。鎌倉時代~室町時代の、備前刀に多いとされています。さらに刀工の流派などによって現れ方は違っており、乱れ映り、地映り、関映り、棒映り、沸映りなどがあるとされています。次に、地沸(じにえ)と呼ばれる模様は、平地の表面に砂利を撒いたようにきらきらと光る微粒子が現れる状態です。これは、刀身を熱した後、急激に冷やすことで表面に鉄の組織の変化が起こることで発生します。地景(ちけい)と呼ばれるものは、焼入れの際に変化として地に見える現象を指します。鉄と鉄の鍛え目の合わせ目に多く見られることが多いですが、鍛え肌を貫いて網目、もしくは天草状に入るものが上質な地景とされています。地斑(じふ)と呼ばれるものは、地景が杢目や板目の鍛着部に沿って現れる現象です。いくつもの微妙な模様を作り出していることから呼ばれており、他にも強弱ある地沸が変化して斑になっている状態を呼ぶこともあります。湯走りは、刃縁を離れた淡い匂や沸が地中に凝って点在しており、まだらな模様を呈しているものを指します。他にも、刃に沿った状態で、段状になって現れることもあると言われています。

応仁の乱以降の日本刀

応仁の乱は、室町時代末期から京都で繰り広げられました。1467年(応仁元年)から、1477年(文明9年)にかけて、およそ11年間に及んだ長期戦の戦乱になりました。この戦いによって京の町は焼かれ、僧侶や商人たちは地方に移ったことで難を逃れました。そのせいで室町幕府の権威は落ちてしまい、領国に帰った守護大名は各地を拠点として争う姿勢を見せました。応仁の乱以降、織田信長、豊臣秀吉に天下統一されるまで、守護大名はそれぞれ領国で軍備を整えていきました。実力があれば支配区域を拡大できるため、全国各地で戦いを繰り広げていきました。この戦乱の世は100年続いて、戦国時代と呼ばれています。下剋上をしようという勢いはますます強まってきて、守護大名は振興の大名に変わっていきました。厳島の戦い、桶狭間の戦い、河越の戦い、姉川の戦い、長篠の戦いなどが、大きな戦いとして有名です。これだけ戦闘が続いた時代だったため、兵器を作ろうという勢いはますます強まっていきました。武装具が一気に発展した時代とも言われています。この時代の戦闘は全てが実力本位であったために、今までの戦闘方法にはこだわらずに、とにかく勝ちにいける武器や方法を採用していきました。密集した隊形での交戦が増えていったため、リーチのある大太刀よりも、今まで腰に佩刀していた太刀に変わっていきました。さらに、抜き打ちが容易に行える、打刀が使用されはじめたのもこの時代です。また、この時代に攻撃だけでなく、防御も工夫されていきました。今までの甲冑に代わって、篭手や頬当て、脛当てなどを採用し、槍や刀、鉄砲などから人体の重要な部分を防御できるように、考案されていきました。

時代とともに語り継がれる名刀とものづくりの中に

日本刀の職人さんの語りに、「鉄の声」を聞くといってようなフレーズをみつけました。この言葉の示すおおよその意味合いは、日々、刀作りに使用する材料の鉄にも、性格や資質の違いがあり、その見極めが作品に影響してくることを言うのだそうです。これは、自然からの声を聞いていることに繋がってくるのかもしれません。自然から発せられるメッセージを研ぎ澄ました感覚でキャッチすることによって、刀作りに反映していくのかもしれません。実際に、刀作りをしてみない限りにはこのような感覚はわからないのかもしれませんが、自然からのメッセージを受け取るということが、ものづくりの中に含まれているのであれば、多くのことは、このような心構えを持って自然から頂いた恵みを利用するというような気持ちを大切にしなくてはならないでしょう。時代を超えて、人の手に伝承され続ける名刀には、命が吹き込まれているように、その意思や存在を感じることがあります。生きるということはこのような意思を持った存在であるのかもしれないと考えさせられました。

名刀に込められたメッセージ

博物館などで名刀に出逢う感動を、どんな言葉で表せば良いのでしょうか。 日本刀は美術辺にありながら武器であるという人も複雑な存在でもあるのです。日用品となる名画や彫刻などといった美術品は数多く時代の名品や名作として残されていますが、日本刀は人を殺めたかもしれない武器であるにもかかわらずそこには人々の魂が宿っているかのような神々しさを感じることがあるのです。刀は武器として人々によって使用されることもありますが、武器だけではなく守り刀として人々の心の支えとなったり、護衛をしたりすることもあります。刀の持つ独特な緊張感は、絵画などの美術品には存在しない価値観であるのかもしれません。刀を好む人たちは感じているかどうかはわかりませんが、日本糖尿が近寄りがたいというような人を寄せ付けないメッセージが込められているのではないかとも考えています。現在においては、必要とされない日本刀がどうして人々の気持ちを惹き付け、愛でられていくのでしょうか。まずはそこに込められた人々の気持ちや様々な時代背景を読み取っていく必要があるのかもしれません。

時空を超える人日のメッセージ

時代を超えて語り継がれる日本刀には、様々な時代において人々の手によって保存されてきました。平安時代に作られた刀が、現現代に存在するように、時代の中で伝承されていくもの作りには、はるかに想像を超えた生命力を感じることがあります。 現代においてもそうですが、私たちは後世に残しているモノづくりや、日々の物事は未来の時代にとって一体どのような事柄になっているのでしょうか。平安の時代からの作りに精を出した職人たちは、現代の私たちが実際に、手作りした刀を愛でているということを、想像していたでしょうか。時代とともに伝承される美術品や工芸品などにおいては、様々な歴史上の文化や人々の生活を窺い知ることができます。それ以上に、その時代に生きた人々の息づかいや存在を強く感じることもあります。このような場面に数多く遭遇していると、人々の生きた証というものは、時空を超えて存在し、さらにはメッセージとして語り継ぐ言ことはできるのであるというような証明を得ているような感覚を覚えることもあります。古代の人々には実際には会うことはできませんが、そこに残された美術品や美術品また刀のような武器カから、過去の時代に生きた人々の思いや考えが伝わってくるというのは不思議でもあり当たり前の現実であるかのようです。

江戸と日本刀

現代では当たり前のように使われている鋼が発見されたことによって、飛躍的に刀を作る技術や精度が向上したということは言われているわけで、ほとんど不純物を含まない玉鋼の誕生によって江戸時代の刀鍛冶は非常に精密な刀を作るようになってきた、という風に言われているわけです。とりわけ、江戸幕府が発注したようなかたなは、非常に無骨で丈夫な刀が作られていたという風にも言われているわけですが、これは刀をよく理解しているからこそこのような作られ方をしたというふうに考えられるでしょうし、この時代には、贈答品として刀を用いることも多かったようで、武器として用いるよりも、むしろ、美術品的な価値を見出していたことは間違いないという風に言えるかもしれません。そして、この時代には、大坂や江戸などで刀をメンテナンスするためのお店なども複数出店されており、割と自由に刀を修理したりすることができたという風にも言われているなど刀にとってはいたれるつくせりの環境が整っていたことは間違いないという風に言えるかもしれません。結果的には、江戸時代の終わり頃になると平和が続きすぎたために、刀は家の中にあふれてしまって、ほとんど使われなくなり、メンテナンスを怠ったかたなは、なまくらとなってしまいほとんど使われず、というような状況に陥ってしまっていたことは間違いないという風に言えるかもしれません。いずれにしても、確かに言えることとすれば、刀は少なからずその時代の勢いや営業というものを常に受けておりその流れに従って、日本刀という物も絶えず影響を受けていたというふうに考えられるわけです。明治時代になると廃刀令と言われる 、刀を全て廃棄するというような法律が定められた結果、当時の武士階級の人々は日の目を見ることはなくなってしまい、庶民と一緒くたにされてしまう運命を迎えるわけで、このような中で結果的には日本刀も、奥深くに隠されてしまうことになったという風に言えるのではないでしょうか。

焼き入れについて

日本刀を作る際に焼き入れと呼ばれる重要な過程があり、この部分の現象を理解しておくことは日本刀を理解しておくことに、はっきりと繋がるという風に言えるでしょう。一見離れて見れば、全く関係がないように見えるふたつの現象が、実は、はるか遠くで繋がっていたというような考え方をする人はいますでしょうか? 刀を作る際にも、全く同じことが言えるわけで、熱が加わる事に応じて刀が膨らみ、その膨らみに応じて加工をするというような相互に関係し合った状態をキープする中で刀を鍛錬していくというような作業は、互いに効果をカバーし合いながら、完成を目指して行くというふうに言えるわけです。焼き入れという作業は、日本刀を作る際には特に重要なものである、という風に言われることが多いわけですが、ここで生じる歪みのようなものが、結果的に日本刀の美しさを決定づける「そり」に繋がるというふうに考えていいでしょう。一般的に言われる「そり」というものはコントロールできていないのではないかという風に推測する人もいるかもしれませんが、日本刀の場合には、絶妙な処理をそりを実現するために、きちんと焼入れの過程で、計算しなければならないという風に言われるわけです。つまり、冷却をするなどした過程で、きちんとそりがどれくらいになるかということを計算しておくことが、求められているということは、間違いなく言えるかもしれません。とりわけ、このような概念は科学的にも証明されており、焼き入れという作業が刀を固くすると言う効果を持たせるために行うものである一方で、刀を完成形の形に近づけるというような役目も担っているということを知っておくことが重要だという風に言えるのではないでしょうか。このようにして、刀の形が作られるのをコントロールすることができれば、伝統工芸と呼ばれる美しい日本刀を作れるのではないかと思います。

神話の中の剣

日本の神話には剣がたくさん登場するかと思います。『古事記』や『日本書紀』の神代に登場する剣を見ていきたいと思います。霊剣、宝剣と呼ばれる剣のことです。日本書紀に出てくる十握剣(古事記では十拳剣と表記)というのは、日本の剣の祖と言われているそうです。持ち主は素盞嗚尊(古事記では須佐之男命)だそうです。スサノオノミコトは、伊弉諾・伊弉冉(古事記では伊邪那岐・伊邪那美)の二尊の子で、天照大神の弟神だそうです。スサノオノミコトは、粗暴な振る舞いがあって高天原から根の国(地上)に追放されましたが、出雲の国の簸の川のほとりに降り立ち、十握剣を持って八岐大蛇(古事記:八俣遠呂智)を退治して、奇稲田姫を救ったとされています。

八岐大蛇を退治して尾からでてきたのが宝剣の天叢雲剣だといいます。天叢雲剣は、草薙剣といわれるようになりました。

なぜ草薙剣と呼ばれるようになったかというと、ヤマトタケルノミコトの波乱万丈な障害が関係しているそうです。父・景行天皇の勅命によって東国平定を命ぜられたヤマトタケルノミコト。伊勢神宮でおばの倭姫命から天叢雲剣と火打ち石を授けられました。その後、駿河の国で、あざむかれて火攻めにアイますが、傍らの草を薙ぎ払い、火打ち石で迎え火をつくり、この何を逃れることができたといいます。それで天叢雲剣は草薙剣と呼ばれるようになったと言われています。この草薙剣は、後に熱田神宮に御神体として祀られました。

けれど、「平家滅亡とともに壇ノ浦に沈んだ」とも伝えられています。日本神話における「天孫降臨」の際に、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられた三種の神器のひとつです。草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡の三種の神器は、皇位継承の証とされています。

日本刀とは

日本刀は、日本固有の玉鋼(日本の古式製鉄法であるたたら製鉄の一方式)および伝統的な鍛冶・鍛錬法によってつくられた刀剣類の総称のことです。太刀、刀、脇差、短刀、剣、長巻、薙刀、槍、鉾などがある日本刀は、太刀や刀の代名詞になっているかと思いますが、この「日本刀」というのは、なんと日本国の外の国から見た呼称だそうです。

中国との日宋貿易(平安中期〜鎌倉)や日明貿易において、重要な輸出品であった刀剣類は、欧陽脩(宋代)によって「日本刀歌」という漢詩が読まれたこともあり、11世紀には日本刀という呼称になりました。この頃からすでに日本刀は、武器としても美術工芸品として素晴らしいということが知られており、明朝時代には日本刀に関する詩歌が盛んに詠まれていました。

また、中国や朝鮮半島では、中国東南沿岸、朝鮮半島での倭寇の激化もあって、日本刀または倭刀の名称で知られていました。倭は「わ」「やまと」と読み、日本を表します。日本国内では、剣、太刀や打刀などと呼ばれていました。日本人が日本刀と呼ぶようになったのは、幕末のころなのです。刀を持ち運びや実際に使うのに便利なように刀装した姿を打刀拵えと言い、刀剣類の外装のことを拵といいます。

刀装というのは、実用の便利さと刀身の保護というのが目的でありますが、この刀装が所持者の身分・権威を表すものとして重要な手段でもありました。

平安後期・鎌倉、室町時代の初期のころまでの刀装は、騎馬戦主体の戦闘様式に合わせた太刀拵が主流でした。室町中期以降は戦闘形式が集団戦になって、刀装も打刀拵が用いられるようになりました。

日本刀の現在

 日本刀という概念は当然ながら江戸時代には無く、当時は太刀、刀と呼ばれていました。最初に日本刀と呼び始めたのは、その美術的価値を評価した外国人であり、今もその名残として、日本刀という呼称が用いられています。明治維新以降、廃刀令も相俟って、日本刀の文化は停滞することになりました。軍刀として日露戦争等で使われることもありましたが、武器としても、美術品としても、広く認識されることはありませんでした。戦後はGHQの政策によってさらに日本刀は失われ、存続が危ぶまれる事態に陥りました。しかし日本政府も必死に文化の保持に努め、結局登録制という条件で日本刀を所持することが出来るようになりました。

 現在では日本刀はすっかり美術品に成りあがり、製作、所有も盛んになっています。しかし武器としての所有は認められていませんから、刀剣としての機能性は、居合道や抜刀道で確かめられるのみになっています。ではその昔、武器としての日本刀はどのように用いられていたのでしょうか。合戦では弓や槍といった、刀以外の武器も使われましたが、それらと比較すると、刀がどのような位置を占めていたのかが分かります。例えば、13世紀の合戦の状況を報告した資料が現在にも残っているため、そちらから当時の戦いぶりを窺い知ることが出来ます。 資料には、馬の負傷の内、6割が矢でできた傷であり、3.5割が刀傷だったと記されています。因みに致命傷に至った傷は専ら刀傷だとも書き添えられています。他方、兵士の怪我の内訳を見ると、7割が矢による傷で、2.5割刀傷でした。槍でできた傷は2.7割でした。これらの数値から分かることは、弓が合戦の主要な武器であったという事実です。日本刀も奮闘していましたが、決して主役ではありませんでした。