日本刀の値段を決めるもの

日本刀の買取をしてもらおうとお考えの方や、価値を知りたいとお考えの方にとって、価値(値段)の付き方が気になるところかと思われます。日本刀の値段を決めるポイントは、刀のランクや作者・刀剣のサイズ・細工や拵えの有無・刀の状態・偽物、贋物ではないか・製作された年代・売却時の市場相場・希少性・鑑定書の階級など多くのポイントが存在します。鑑定書があるから値段が高いというわけでもなく、鑑定書にも階級がありますので気を付けましょう。階級の種類としては、保存刀剣・特別保存刀剣・重要刀剣・特別重要刀剣の順に値段が上がります。日本刀の値段を調べる方法は、インターネットでも可能です。その他には、刀の買取店などでどの程度の価値があるのか調べることが出来ます。

伊達家の刀について

独眼竜でも知られる伊達政宗を代表とする伊達家は、17代当主の伊達政宗が陸奥仙台藩の初代藩主で、奥羽地方を治めていたことで有名です。

その伊達政宗は脇差の日本刀、鎬藤四郎を秘蔵していました。

名刀と伝わる鎬藤四郎は徳川秀忠も所望したほどですが、政宗は豊臣秀吉に拝領した形見を理由に拒否しています。

徳川秀忠は政宗の主君ですが、政宗引いては伊達家において鎬藤四郎は特別で、主君にも譲ることができない重要な物だったことが分かります。

政宗を始めとする伊達家が鎬藤四郎を大切に守り続けてきたのは、戦を乗り越え長く繁栄する家の象徴として重要視してきたことが理由に考えられます。

伊達家の精神ともいえるこのような姿勢は、仙台から宇和島藩の伊達家にも受け継がれています。

日本刀の様式と戦闘スタイル

日本の歴史のなかで時代における争いごとのなかで多様に繰り広げられた戦闘スタイルは、日本刀の様式にも影響を与えているようです。日本刀の姿を時代ごとに区分するなかで、平安時代中期以前とそれ以後ではそのフォルムに大きな違いが確認できるようです。平安時代以前のものとして日本で発見されている刀剣の多くは「直刀」であるとことが一般的には認識されています。大陸などから伝来した異国の文化をルーツにもつ刀剣は、皆さんがよく見知っているような日本刀ではなく「直刀」であったとされております。平安時代以前では日本刀と言いますと、直刀であったものがどうして「湾刀」として生まれ変わったのか、時代ごとの日本人の戦闘スタイルの変化であるとも考えられているようです。

日本刀の美しさと機能

「下緒(さげお)」は、日本刀の鞘(さや)に使用されるヒモです。「鞘(さや)」は、日本刀の刃を納めるための木製のケースのようなものです。鞘に取り付けたヒモを着物などの帯に結びつけることで平安時代から室町時代の武士たちは日本刀を帯刀していたようです。下緒が長いものは合戦の際に武士たちが、下緒をたすきがけにしてと考えられているそうです。日本刀の刃の部分は鋼でできておりますが、鞘の部分は木製とされ刃をおさめるための筒を布で包みさらに漆で仕上げているようです。日本刀を持つための柄(つか)の部分も木製でできておりますが、武士たちの手が滑らないように表面には鮫皮やヒモなどで加工されていたようです。日本刀の美しさが用美と呼ばれる所以は、機能性を重要視したその造にあるようです。

相鎚と折り紙

「相鎚(あいづち)」とは、話し相手の言葉に調子を合わせるように返答することを言いますが、この言葉は刀鍛冶が先輩鍛冶と向かい合って刀を鍛える際に、交互に打ち付ける様子を言いあらわしているようです。刀鍛冶の先輩と弟子が、お互いの息を合わせるように共同作業するなかで生まれた言葉であると言われているようです。日本刀に関連する言葉は現代でも数多く使用されているようですが、たとえば「折り紙付」。「折り紙付」と申しますと、現代では特定のモノや事がらの質や品質を保証するような場合に用いられることが多いと思われますが、その昔、人びとが「折り紙」を用いる場合、日本刀の「鑑定書」を意味していたとされています。「折り紙」のルーツは、室町時代ころからはじまったなどとされ、大刀や刀の評価をあらわすものとして「折り紙」=「鑑定書」として使用されていたようです。

越前康継

初代越前康継は、野田繁慶、長曽祢虎徹等と合わせて「江府三作」と称された。出自については定かではないが、生国は近江国といわれている。越前国に移住し、越前兼法に弟子入りした。

その後、徳川家康の庶子結城秀康が越前藩初代藩主として転封されてきた。康継は、結城秀康に作刀の腕を見込まれ、お抱え刀工として仕えることとなった。幕臣への進物品として結城秀康に献上した刀剣が、徳川家康の目にとまり、江戸での作刀を命ぜられた。

以後、江戸と越前を隔年で住まいし 作刀した。 この時より越前康継を名乗るようになり「康」の一文字を家康より賜り、葵紋を茎に刻むことを許された。

康継は大坂の陣に従い、焼き刃の再刃にも力を注ぎ、正宗や貞宗の名刀の復活にも尽力した。この際の経験が康継の作刀の技術向上に寄与したことはいうまでもないであろう。

古備前友成

古備前友成は、平安中期から後期の備前国の刀工。正恒と並び称される古備前派を代表する名工である。一条天皇の刀剣を鍛えたともいわれている。古備前派とは、鎌倉初期の一文字派以前に作られた刀剣を指す。

友成が活躍した時代は鎬造りで湾刀の形が確立されてきた時代で、代表作は「銘 古備前國友成造」で国宝に指定されている。これは、平宗盛が平家一門の繁栄を祈念して安芸国厳島神社に奉納した太刀である。

また、鶯丸太刀も代表作で、これは御物となっている。 古来より備前は、吉井川の砂鉄と中国山地の豊かな森林資源による燃料の供給により製鉄が古墳時代より繁栄していた。

そのため平安時代後期から室町時代末期にかけて 多くの名刀が作刀された。友成の銘は、平安期とは別に鎌倉期の嘉禎年間に作られた刀にも友成の銘が刻まれている。異なった時代に同名の刀鍛冶が存在していたと見られる。

包丁の選び方

ステンレス包丁が登場するのは、近年になってからのことでありますが、皆さんがご存じの和包丁のなかでも本焼き包丁には、日本独自の工芸品でも武器でもある日本刀をつくるための技術が活かされていると言われております。

本焼き包丁の切れ味に勝るものはないなどと料理人のなかでも「格」を示す際のシンボル的な存在でもある本焼き包丁の「格」が、最近になって危ぶまれているというのも、ステンレス包丁の扱いやすさや優れた衛生面からの評価につながっているようなのです。

切れ味じたいは本焼き包丁には勝てないとする料理人の方々も多いようですが、最近では、従来のステンレス包丁の製造方法に改良が加えられることでその性能が高まってもいるようなのです。

大慶直胤

大慶直胤は、江戸中期から末期に活躍した刀工である「水心子正秀」「源清麿」等と合わせて「新々刀江戸三作」と称されるほどの名工である。

名前の「大慶」は、七月十五日に出る月を「大慶の月」と呼び、その日に生まれたとされることに由来する。生年は、安永七年もしくは安永八年とされる。

生国は出羽国で、家は野鍛冶を生業としていた。 若年の頃より刀工を志し、山形藩主秋元氏の江戸屋敷で同郷の水心子正秀に入門した。 その後、秋元藩お抱え刀工として仕えた。文政四年または文政五年、筑前大掾を受領。名声が上がり各地よりの招請が殺到した。

嘉永元年、京都の鷹司家の依頼により太刀を制作し、功により美濃介の官位を下賜された。大慶直胤の特徴は、水心子正秀が唱えた「刀剣復古論」を実践し、「五箇伝」の技術を駆使した古刀剣を再現したことである。 代表作は、保存刀剣「脇差 銘 直胤(花押)」がある。

五箇伝のなりたち

延暦13年、桓武天皇により平安遷都があり、政治の中心が山城国に移った。刀剣の製作も山城国で盛んになった。蝦夷征伐、承平天慶の乱(東国での平将門の反乱。西国での藤原純友の反乱)、前九年、後三年の両役による奥州の動乱、保元平治の乱(武士の台頭)などで平安期は終始、全国的な戦乱が勃発する時代であった。故に、刀剣の需要は右肩上がりに増大した。

前半は、「大和伝」と同様に銘を刻まない刀剣が多数だったが、後期には、三条宗近のように銘を刻む刀匠が登場してくる。これらを「山城伝」と称する。

大和、山城などの畿内とは別に、古来より吉備と呼ばれた地域(岡山県)は、大和王権に服属はしたが、強固な権力者が統治し、古代より独自に政治経済文化を発展させた。

また、瀬戸内海の海運を掌握し、大和と深い結びつきを持った。吉井川流域で産出される良質な砂鉄と中国山地で生産される木炭。

これらの好条件の下、備前国(岡山県東部)の福岡や長船に優秀な刀匠達が集まって作刀を始めた。ここで製作された数々の名刀を「備前伝」と称する。平安期末から鎌倉期になると、東国武士の勢力が膨張し、他を圧倒した。

特に源頼朝が相模国鎌倉に幕府を開いたのちには、全国各地の名工が鎌倉に集まり、作刀を始めた。これら相模国で作られた刀剣を「相州伝」と称する。