太刀と日本人

日本刀の種類を紐解いていくなかで、太刀は比較的長いタイプの刀剣になります。弓形の大きな反りが特徴でもありますが、このような曲線美を描く湾刀が、世の中に登場しはじめたのは、平安時代の後期頃ではないかと考えられているようです。それ以前の刀剣は、直刀であったなどと考えられておりますが、太刀は刀を下にして腰に履くことで人々は携帯していたようです。合戦などでは馬上で用いたことから、扱いやすいように刃を下に向けて武士たちは腰に吊るしていたと考えられているようです。刃を下にして携帯することによってより速く美しく馬上であっても刀を抜くことができたと考えられております。太刀は、戦いの場だけではなく、武家社会において、神事や儀式、その他の祝いの場などでも用いられてきました。武家社会が構築される前からも「太刀」の存在は、日本人にとって特別なものとして扱われてきたようです。実際に現代にも伝わるひな人形のお内裏さまたちにも「太刀」の装備がみられております。現代にも伝えられる「太刀」は、武家社会においての人生の特別なターニングポイントなどに用いられる特別な道具であったとも考えられております。

研師

研師というのは、ただ研ぐというのではなく、刀の持ち味、つまり特徴を活かすために、ある程度工作するんですからね。押さえてみたり出してみたり。その工作のなかで自然に出た物は割合見やすい。つかみやすいですが、出ないから無理をして出すと刀そのものの持ち味がなくなってしまうのです。最近の研師は忙しい。愛刀家が増えたこともあるが、一つは重刀の審査の影響がありますね。研ぐのはもったいないというのですが、やはり審査等の場所に出すときにはメークアップしなければいけないんですね。それから、最近の研師への注文は、研が派手な・・・というのが多いですね。刀を見るのには本当は太陽光線と言おうか、自然の光、それも北の光線が一番いいのです。刀がしっとりと落ち着いて見えます。しかし今は、昔式のさしこみ研などという、地味な玄人好みの研を注文する人は少なくなりました。ほとんどは地を黒く刃を白くという、見た目に華やかなものが一般的に好まれます。

天正拵・尾張拵・柳生拵など

天正拵というのは、戦国期に武用本位の平常差し、実用具としてつくられた拵えの1様式だそうです。革巻柄に黒塗り漆の鞘とされたものが多いそうです。簡素かつ機能的で堅牢であることが基本だそうです。尾張拵というのは、尾張徳川家の武術に則った造り込みの拵えだそうです。鞘は肉厚であって、柄が比較的短いということ、頭が小さいというのが特徴なのだそうです。柳生拵えというのは、尾張拵えの一種だそうです。柳生流武術に即した造り込みの拵えだそうです。目貫の位置が表裏逆になった例もあるそうです。薩摩拵というのは、薩摩示現流の剣術に則った造り込みの拵えだそうです。反りが比較的少ないものだそうです。鞘が太くて、返り角は独特の形状をしているものが多いそうです。鍔は拵え全体に対して小ぶりだそうです。柄が逆に反っているように感じられるそうです。鐔どめの孔が設けられているそうで、柄が抜けないように紐で結わえられているということだそうです。容易に刀を抜かないようにという戒めだそうです。肥後拵というのは、千利休に学んだという細川三斎忠興の茶の美意識を映しだしたとされている拵えだそうです。肥後金工が制作した鐔、目貫、縁頭を用いて、鉄地や真鍮地などの金具を用いているそうです。渋い味わいがあるそうで、そこが魅力と言われているようです。抜刀術を基本とするそうで、比較的短寸の刀が装着されているそうです。庄内拵というのは、庄内金工の作品を用いた拵えだそうです。無骨で泥臭さが魅力なのだそうです。縁頭とコジリ金具は鍬形の透かし模様とされたものが多いそうです。大小拵というのは、江戸時代、登城の際に用い得ることを許された式正に適った大小揃の拵えのことなのだそうです。

戦後にも生きる日本刀の精神

日本刀は大戦中の日本でも、兵士の心の拠り所になりました。家に所蔵された刀の中から一つを選び、戦地に向かう時に持って行った若者もいました。戦後はそれらの刀の多くが行方不明になっていましたが、一部が海外に流出していることが分かり、買い戻される事例が続きました。所有していた若者の家族が連絡を受けてその刀を見に向かい、泣き崩れる例もありました。刀には亡くなった息子の思いが込められていると感じたのでしょうか、家族は必死にその日本刀を買い戻そうとしました。新しい所有者となっていた人はその様子に感銘を受け、無償で譲ったそうです。戻ってきた刀を家族がその後どのように扱ったのかは分かりませんが、きっと大切に保管したことでしょう。日本刀には人と人とを結び付ける力があるのです。ところで日本刀は贈答品として重宝されてきた歴史がありますが、実は故人に贈ることもあります。これは、日本刀の魔除けの力を信じての慣習と言われています。あの源氏物語にも、主人公が魔除けとして太刀を置いたというくだりがあります。故人には悪い霊が近寄ってくると信じる人は、例えば棺の上に刀剣類を置いて故人を守ろうとするのです。実はこの風習は特別なものでもなく、一般的な葬儀でも見られるものです。刀は葬儀のオプションとして利用することがほとんどですが、遺族が何らかの日本刀を所有している場合は、それが使われることもあります。

切羽詰まるとは

日本刀由来の日本語の一つに「切羽詰まる」という言葉があります。「切羽」とは刀装具の1つであると知られ、日本刀の外観からは見分けにくい小さな金具であります。その形は刀の種類によって様々ではありますが、役割としては鐔のズレ防止であると言われております。この「切羽」は時代によって使用されている素材が異なっていることが確認されているようですが、それぞれの時代背景を物語っているとも言われております。「切羽詰まる」とは、切羽自身が刀を固定することに使われていることから、物事がどうにもならなくなり身動きが取れない状態を表す言葉として使われるようになったと考えられているようです。日本には刀剣にまつわる言葉が数多く存在いたしますが、その中でも「切羽」は刀剣の装具のなかでは大変分かりづらい金具でもありますが、刀剣を刀剣たらしめるためにとしては大変重要な役割を担っている金具でもあるのです。切羽に詰まる人々の状況は、当時も現代も変わりはないのでしょうか。

榊原鍵吉の刀

榊原鍵吉(さかきばらけんきち)は、幕臣の家に生まれて、十三歳になったときには、江戸麻布狸穴の男谷精一郎(おだにせいいちろう)に入門をしました。直心影流(じきしんかげりゅう)の剣術を修めるためです。のちに、師男谷の推挙によって剣術教授方になります。教授方は、井上八郎や桃井春蔵をはじめとする、幕末の有名な剣客が名を連ねていました。そのうちの一人になった榊原鍵吉の腕が、いかに優れていたかは分かります。実際に健吉は、同じ教授方である三橋虎造(心形刀流、突きの名手)と仕合いをして破り、剣術日本一という泥舟高橋三郎からは面を取り、徳川家茂の御前試合であっても名手であった天野将曹を破ったと言います。どの仕合であっても、木刀を大上段に振りかぶっての勝利であったと言います。その後、上野の彰義隊戦争が起こりますが、このときの健吉は輪王寺宮の護衛として仕えており、5月に敗戦が決まってからは、宮を守って三河島村に落ちのびていきました。しかし宮は深窓育ちであるために草鞋の履き方もあまり分かっていない様子で、仕方なく鍵吉は宮を背負って移動をしました。その後に植木屋の門左衛門の家に辿りつき、鍵吉は下谷車の自宅に舞い戻りました。明治時代に入ってから、再び江戸に戻って道場を開きましたが、時代が時代であったために、門人はあらわれませんでした。仕方なしに、撃剣会の興行などで世をわたっていったそうです。同じく旧幕時代の剣士も、明治開化の時代では生きる手段がなかったのです。撃剣会もやがて廃れていきましたが、明治天皇の行幸があり、御前で兜割りが行われることになりました。兜を斬るという無茶な事ですが、鍵吉は同田貫業次の彼方で見事切り割り、奇跡を見せたと言い伝えられています。

山岡鉄舟と名刀

歴史上に名をはせる剣士たちの中には、実際には刀を抜かずとも、伝説的な存在として現代においても、若い剣士たちにとっての崇高な存在と成し得ている人々がいるようです。その伝説的な剣士の一人として挙げられるのが山岡鉄舟であります。山岡鉄舟は勝海舟とともに幕末の3舟などと称される幕臣の一人でもあります。またその優れた剣術などから「鬼鉄」などと称されその存在は刺客として恐れられていたようです。維新後は明治天皇の下で 侍従職として仕えていたようです。また、「禅」においても卓越した精神を養い、さらなる剣術への高みへと至ったとも言われているようです。彼の思想の中には「武刀」という精神があるそうです。この思想は、日本刀を用いずに相手との戦いに挑むという考えなのですが、実際に、刀をもたずに戦うのではなく刀剣を必要としないほどの崇高な立派な人間であることを目指すというような考えが元となっているようです。剣術の練習などでは、一般的な刀よりもさらに小さい刀を選び、立派な刀剣に頼らない戦い方を稽古にも用いていたようです。

豊後国の刀匠

忠行というのは、江戸時代中期の豊後国の日本刀・新刀の刀工だそうです。藤原高田。國行の子だそうです。熊本藩細川家に仕えたそうです。朝鮮施設来日の際には、幕府からの命令で太刀を打ったそうです。忠吉というのは、江戸時代初期の肥前国の日本刀・新刀の刀工だそうです。忠吉初代だすです。埋忠明壽の門人だそうです。武蔵野大掾を受領して、忠廣と改名したそうです。佐賀藩鍋島氏に仕えたそうです。忠吉の三代は、近江大掾忠廣の子供だそうです。陸奥大掾を受領して、のちに陸奥守となったそうです。父の近江大掾忠廣に比べて鍛えはより緻密だそうです。三代陸奥と称されて愛好者が多いそうです。忠吉の四代は、陸奥守忠吉の子だそうです。近江大掾忠廣の孫だそうです。為康というのは江戸時代前期の摂津国の日本刀・新刀の刀工だそうです。富田六郎左衛門。備中守康廣の子供だそうです。初めは土佐将監康廣と銘したそうです。継平というのは、江戸時代前期の越前国の日本刀・新刀の刀工だそうです。藤田與兵衛。二代康悦康継の門人だそうです。寛永年間末に江戸に出て、神田明神の近くに住んだそうです。二代目の継平は、江戸時代中期の武蔵国だそうです。江戸神田に住んでいたそうです。江戸幕府八代将軍徳川吉宗の許しを得て、将軍家蔵の古名刀の押形を採取して『継平押形』を遺したそうです。綱廣というのは、江戸時代前期の相模国の人だそうです。弥五右衛門。伊勢大掾を受領したそうです。常光というのは江戸時代前期の武蔵国の日本刀・新刀の刀工だそうです。常光初代で、江戸石堂の代表的な工だそうです。日置光平の兄だそうです。本国は近江国だそうです。のちに江戸で江戸石堂として名を馳せたそうです。

鍛冶の伝承とイベント

最近では海外からのインバウンド観光客などにも注目されている、日本刀作りの体験イベントなどがあるようです。お祭りなどの祭事の際に、刀の工房などを見学できるようなコースもあるようです。現代では実際に日本刀などを武器や日用品として使うことはありませんが、刀剣は、人々の長い歴史の中で文化や様々な事柄を語り継ぐ文化財でもあります。 時には武器として、時には、家族を守るためのお守り刀として、祭事の際には神器として、刀剣は長い歴史の中で人々の生活の一部でもありました。そのような日本の伝統と文化を支えてくれるのも日本刀の存在であります。現在でも伝承されている職人たちの方な作りは、見る者を圧倒するなどとも言われています各産地ではそれぞれのイベントごとが催しされているようですので、興味のある方は是非とも訪れてみてはいかがでしょうか。人々が手作業で心を込めてモノ作りに励む姿は、何よりも心に響くのではないでしょう。