大太刀

 大太刀は14世紀頃に登場した日本刀の一種で、大きな刀身を特徴とする刀です。その形状から、突き刺したり衝撃を与えたりするのに向いており、当時の主要な武器の一つになりました。また戦いの場で利用されるばかりでなく、その大きな刀身を見せつけて威嚇するのにも使われたと言われています。室町時代になると、大きな太刀よりも扱いやすい、短い刀が造られるようになりました。この刀剣は「脇差」と呼ばれ、場所を選ばずに振り回すことが出来るとして、徐々に人気を集めるようになりました。そして脇差と並行して徐々に太刀を駆逐し始めたのが、「打刀」でした。馬上で振り回す太刀とは異なり、打刀は歩兵戦で重用されることになりました。

 戦国時代に入ると、合戦の規模はさらに大きくなり、刀の需要は日増しに高まりました。その結果、太刀よりも扱いやすい打刀に人気が集中したのです。打刀にはすぐに抜刀できるというメリットがあり、実戦で役立つのは太刀よりも打刀でした。ただ、しばらくの間は太刀も使われ続け、両刀の併用が主流だったと言えます。

 江戸時代になると、打刀を帯刀する際、刃を上にするのが一般的になりました。しかし馬に乗る時は旧来の「天神差し」(刃を下にする差し方)だったと言われています。鞘が馬に当たることを恐れたためでした。17世紀には、日本刀は武士の誇りを象徴するものとなり、単なる武器以上の存在感を放つようになりました。脇差との2本差しという武士の格好は、この頃に確立したと考えられます。江戸時代は戦国時代とは異なり、合戦が減った平和な時代でした。そのため、刀の用途は緊急時に使う以外になく、太刀を差す意義が薄れたことから、打刀が主流となりました。

模造刀を用いた稽古

当然、現代においては、かつての、江戸時代のように、道の真ん中で、模造刀を振っていれば、警察の御用になってしまう、可能性が高いわけで、模造刀を用いたレクリエーションなどを、催しているイベントなどに、参加するなどして、適切な場所で、適切に、使用しなければならないということは、何とも、肩身の狭い思いをしなければならないということで、致し方のない部分があるのかもしれません。しかし、このような、日本刀や、模造刀を用いた技術というものは、決して、簡単に1日練習したから、大成するというものでは、決してないということを分かっておくことが必要で、鍛錬を、どのようにして積み重ねていき、長い目で、このような事態を見るのかということが、重要になってきている、ということです。実際に、あなた自身が、日本刀を選ぶために、店に入っても、数万円から、数十万円程度の、エントリーモデルと呼ばれるものが、まるでテニスのラケットのように置いてあって、感覚的に、良いなと感じたものは、積極的に試すなどして、買うほうが良いかもしれません。模造刀であっても、日本と同じように、イッテンモノの、オリジナルである可能性が非常に高いため、その場で、即買ってしまうということも考えながら、選ぶことが、何よりも、重要であるということは、言うまでもありません。なるべく、多くの専門店に足を運んで、感覚的に、ピンと来たものを、買ってしまうということが、重要だと言えそうです。しっかりと、手入れをしていれば、一生のうちに一度も変えずに、買ってから長く愛着をもちつづけるままに模造刀を使うこともできるわけですから、よく選んで、買うということが、重要だと言えるでしょう。

公的に生きるという精神について

次に、武士の時代にはなかった、現代人の特徴について見ていきましょう。現代の世の中を考察してみると、多くの人々が心、精神的な面において問題を抱えていると言えるでしょう。自分を見失っている人も多く、人格や品性というものを持ち合わせていないように見受けられます。そのようになってしまった原因を考えると、自己中心主義、個人主義というような放漫なエゴイズムが現代社会において混在しているからだと考えられます。意識が個人に向いている人が多く、公的精神が欠如してしまって私利私欲を目的とする傾向にあるように思われます。昔の武道の精神では、現代の自己中心的な考えが最も良くないと考えられており、戒めていました。世のため、人のために役立つ人間であること、公的に生きることこそが、人間の生き方としてあるべき姿であると考えられていました。公的に生きるという明確な目的が人間として明確にあったので、自分自身の中心に公的であることという考えを持ち日々鍛錬していたのでしょう。武道とは道徳を学ぶ手段のひとつであり、相手を思いやり、労わり、愛することを学ぶことができます。しかし、現代では、そのような道徳を学ぶという機会が教育の中から抜け落ちてしまっています。現代社会においてそのような教育による弊害が大きな問題になってきていると考えられます。公的に生きるという考えは現代社会において古い考え、個人の意見が尊重されないと非難されることもあり、だんだんと学ぶ機会がなくなってきたのでしょう。しかし、国家の中で生きること、会社や学校でうまくやっていくためには、公的に生きるという精神を学んでおく必要があるでしょう。今後の日本の発展にも、現在の個人主義だけでなく、公的主義も必要不可欠な考え方と言えるでしょう。

サムライの心とは

実際に武闘家として活躍していた方から、サムライの心というものを学んでいいましょう。まず、武道において一番重要なのは心なのです。これは少し意外かもしれませんが、人間は自分の身体が限界に達した際には、気力や精神力などの心の強さに頼り、対応していかなくてはなりません。そのためには、日々心の鍛錬がとても大切になってきます。心を鍛えておかないと、身体が限界をむかえた際にその物事を進めていくことが困難になってしまいます。物事としっかり向き合い、最後まで取り組むためには、心の探求を日々行なっていくことが必要なっていくのです。この「心」というものは人間だけが唯一持っているもので、己を律して生きていくことができます。そしてそのことこそが、人間として生きているという証であり、誇りであります。己を律していける能力を持っているのだから、人間として正しく己を律していくことが求められます。そのために鍛錬していかなければいけないのです。そのために武道があり、そのための修行の道なのです。しかし、この心、精神の鍛錬探求は、とても深くて、人間にとって永遠のテーマであると言えるでしょう。いつの時代も心向き合い苦労していくのでしょう。現代人ももちろん苦労しています。だからこそ、先人達が修行や鍛錬を絶えず重ねてきたことをとても偉大に感じますし、尊敬せずにいられません。昔は現代よりも自分自身思ったり、考えたりしたことを素直に実行すること
困難だったと考えられます。武士道というのは、厳しい掟もたくさんあったでしょうし、己を律する努力は現代人考えているよりもはるかに大変だったと考えられます。そのような環境で生き抜いてきた先人たちを、現代人はもっと誇りを持つべきだと思います。先人の偉大さをみとめ、日本人の良さを継承していくべきでしょう。

初代康継

初代康継(やすつぐ)は越前康継。天文23年~元和7年9月9日(1554年~1621年10月23日)を生きた越前国(現在の福井県北部)・武蔵国(現在の東京都、埼玉県、および神奈川県北東部)の刀工です。
初代康継の出自ははっきりと判明しておりません。ですが、美濃国赤坂千手院派の後裔といわれているそうです。近江国(現在の滋賀県)長浜市下坂が生国で、下坂氏のお抱え鍛冶であった下坂八郎左衛門の息子、または弟であると言われているそうです。康継は名を下坂市左衛門といったそうです。初期作品ではその下坂を銘に刻み、「肥後大録下坂」としていたそうです。
慶長年間(1596年~)のはじめ頃に越前に移り住んだとされ、徳川家康次男の越前北ノ装藩主結城秀康のお抱え鍛冶になったと伝わっています。結城秀康の推挙により、慶長10年もしくは11年頃(1605,1606)(慶長18年(1613年)頃の可能性もあるそうです)、徳川家康・徳川秀忠に召されて江戸で鍛刀を命じられたそうで、その腕を認められて五十人扶持の士分待遇になり、徳川家康から「康」の字を賜ることになります。ですのでこれを気に改銘し、「康継」となったとされています。さらに葵の御紋を作刀の茎に切ることを許されもしました。ですので「御紋康継」や「葵下坂」とも称されるそうです。越前と江戸に隔年交代の勤務を命じられたとも言われています。
南蛮鉄を最初に用いた刀工だとも言われています。作刀には見事な彫り物が在るものが多いそうで、それは越前の彫刻家である喜内一文が手がけたそうです。重要文化財指定の作や重要美術品の刀もあるそうで、さぞや立派な彫り物なのだと伺い知れますね。

剣豪は生きてこそ

武士として武芸の稽古は、武士の心技体を習得していくために大変重要なものでした。

彼らは型の稽古を繰り返し、自分の体の動きを知り、技を向上させていくわけです。

武士道というと、新渡戸稲造の「武士道」を思い浮かべますが、江戸時代に武士道という言葉はなかったそうです。

では当時の武士道とは何かと問われるとはっきりとした答えはないそうです。

とはいえ、「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という葉隠の一説があるように、命を賭けて守らなくてはならない規律があったのは確かですが、儒教とか朱子学とは違うそうです。

ただ武士にとって守るべき規律は、武士であることの証でもあるので、それが「誇り」だったともいえます。

幕末維新の動乱で生き延び事をなした人々は、剣の達人でもあったそうです。

まずは福沢諭吉。流儀は立身新流居合の免許皆伝だそうです。稽古は一日も欠かさずしていたそうです。

人を斬ったりしたことはないそうですが、西洋かぶれの中心人物として、暗殺のターゲットにされることは多かったようです。もちろん暗殺者からは逃げ切っています。

逃げの小五郎として有名な桂小五郎(木戸孝允)も長州藩の武士ですし、勝海舟もそうです。

剣豪というのは剣の修業を熱心にしていたわけですから、禅からきた武士道というのを習得しているはずです。

なので剣豪と呼ばれる人たちは、「殺すなら殺し、活かすなら活かす」という沢庵和尚の言葉が示すように、斬って勝つというよりも、活かす道を模索していたようです。

禅の修行をすることは剣の道でもあったようですが、剣豪と呼ばれる人たちは、剣というものが人を殺すためのものというよりも、剣とは人の生死を自在に操れる域に達してこそと考えていたのかもしれません。

生きてこそ、を実践して日本を変えた偉人の多くが武士の魂を大切にした剣豪であったのは、とても面白いと思います。

 

「刀狩」の真相

その昔、豊臣秀吉によって発令された「刀狩令」は、歴史の授業などでもお馴染みの歴史と言えるのではないでしょうか。この「刀狩令」は、戦国の各諸大名が各々

で進めていたとされる政策を全国的な規模でまとめ、徹底的に推進したというものであったというのは有名な史実でしょう。その目的として「土一揆の根絶」「大仏造営」「農業への精励」という3つが挙げられることも有名ですが、本来の目的は、1つ目の「土一揆の根絶」だけであり、あと2つの目的は、単純に武器を取り上げるためだけの建前であると考えられているようです。「土一揆」というものは、その土地の地侍たちが農民を扇り、隙を狙っては権力者に取って代わろうとするものであるとされ、江戸時代などに見られるような、年貢の徴収に耐えかねて行われた百姓一揆とは異なるものとされているようです。わかりやすく表現すれば「下克上」的な意味を持った一揆であり、農民一揆に比べて、非常に過激な思想であったとされているのではないでしょうか。その「土一揆」を起こさせないようにするためには、農村の武装解除は必要不可欠と考えた秀吉は、武器を没収する理由として「刀や槍をつぶして大仏をつくる釘や鎚とする」また、「同じく刀や槍をつぶして農機具を増産し、農業の生産拡大をはかる」という、農民が受け入れやすいような、もっともらしく、かつ、道徳的な目的を掲げ、事実上、反抗できないような状況を作り上げたと言えるのではないでしょうか。争いが起きなかった時代というよりは、争いを起こさせないよう、統制されていると見せかけて、その実、実権者によってコントロールされていた時代であるとも言えるのではないでしょうか。

幕末の銃

単なる金属の筒の滑腔式ゲベール銃に対し、銃の筒の内側に溝がある施条式(ライフル)のミニエー銃では射程距離が三百メートルほどに伸びる。命中率も十倍は違うだろう。ミニエー銃は
フランスで開発されたが、日本に輸入されたのはオランダ製。幕府歩兵の装備銃であった。
蝦夷の旧幕府軍は、将軍家茂の親衛隊が装備していたイギリス製エンフィールド銃も装備して
いた。ミニエー銃の改良型で、日本ではタワーミニエー(鳥羽ミニエー)と呼んでいた。

佐賀が火薬筒と弾丸を薄紙で密着したカートリッジタイプのものを発明していた。雨にも強く、装填も早い。世界最強の火縄銃をつくった日本の匠の技術は、二百年の空白があったが幕末で活かされていた。「美しく、よく斬れる」日本刀の匠の心と技の伝統があってのことではなかろうか。

江戸幕府は、ナポレオン三世から戊辰戦争に使ってくれと、フランス製シャスポー銃を多数
(三千挺説と千挺説がある)贈与された。が、到着が間に合わず竹橋の武器庫に入ったところで、幕府は終意。非運の銃であった。後日談。このシャスポー銃を改良、参考にして村田銃の開発が行われた。

 

十二人の刀工

御鍛治番と呼ばれた十二人の刀工がいた。上皇の命により月番で作刀した。十二名の内、備前
国(岡山県の南東部)から七人が選ばれていた。そして名誉ある一月番が備前国の福岡一文字の
祖、古一文字の則宗であった。則宗は御鍛冶番第一人者の栄誉で、十六の菊弁の紋章を銘に刻むことが許された。
備前の万工グループを総して一文字派と呼ばれたが、則宗のみ「菊一文字」と呼ばれた。後鳥
羽上皇の御鍛冶番を代表したことから、その優美さに加え、ひとつ格が違うものとして後世まで語り継がれた。

日本刀が出現した平安中期から戦国の世が終わる古刀期まで、備前国は日本最大の刀剣生産地であった。鎌倉、南北朝、室町、安土桃山の各時代に代表的名工を輩出した。
上古刀、古刀、新刀、新々刀と称される作刀時代の区分では、日本刀以前の直刀時代を上古刀。平安中期から安土桃山の中ごろまでを古万。徳川幕府開闘を前後して、慶長から江戸の中期、天明、寛政あたりまでを新刀。明治中ごろまでを新々刀。以降、現在までを現代刀とよぶ。

 

菊御作

茎には菊紋の銘が打たれており、それが先駆けとなって皇室の紋章として用いられるようになったといわれています。
他に「菊作」「御所焼」 とも呼ばれ、大いに珍重されました。

激しい生涯を生きた後鳥羽上皇の手による太刀は、鏑造、庵棟、鍛え板目、刃文小子乱れなどがあり、山城・備前・備中などの名工たちが相槌を務めました。
総体としては山城の特色が強いものの、各名工の作風が投影されています。
上皇は島に流されましたが、これらの太刀は名刀として今の世まで愛されてきたのです。